Kansai University of International Studies

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学長のつぶやき。

オリンピックと採点評価

 平昌オリンピックのテレビ番組を視聴していると、その競技によって採点評価の仕方に大きな違いがあることがわかる。
 かつて民主党政権下の”事業仕分け”と呼ばれる、自民党が予算化していた事業を仕分けしてストップさせるという強引な政治が行われた際に、スーパーコンピュータの性能をめぐるやり取りの中で、蓮舫議員が「世界で一番でなければいけないのか、二番ではいけないのか」と迫ったことがあり、当時大学関係者は科学技術の世界での競争への無理解を嘆いたことがあった。
 オリンピックも世界との競争であり、金メダルをめざし、それに次いで3位までに入ってメダルを手にし、表彰台に上がることを目ざして、アスリート達は競い合う。3位までのメダリストには、金500万、銀200万、銅100万の報奨金が国から出されるという。
 6年前になるが、秋の園遊会に招いていただいたことがある。その宴で注目されたのがオリンピックの金メダリスト達であった。招待された各界の有名人が一緒に写真を撮ってほしいとねだったのが彼らであり、私もボクシングの村田諒太選手(現WBA世界ミドル級チャンピオン)と写真に収まった。しかし、園遊会には金メダリストは呼ばれても銀・銅のメダリストは呼んでもらえない。国の評価はやはり一番でなければ評価してもらえないのかと実感したものである。


 さて、オリンピックは勝負の世界であるが、言い換えれば「参加者同士の相対評価の勝負」の場である。相手より優れているという評価が勝負を分け、メダルの色を分ける。1回の結果で勝負を決める種目もあれば、複数回のプレイの最高点で勝負を決めるもの、予選結果から決勝へと進むものを決める種目など決め方は様々である。
 その中で、採点評価には大きく分けると3種類の方法に整理できる。第一に、相手との勝ち負けを競う“対決型”(アイスホッケー、カーリングなど)、第二に、ストップウォッチで0.01秒を争う“一元的・定量的評価型”(スピードスケート、距離スキーなど)、第三に、人間の眼で採点基準に則って評価する“定性的パフォーマンス評価型”(フィギアスケートなど)である。
 勝負がはっきりわかる“対決型”は誰が見ても結果がわかりやすい。“一元的・定量的評価型”は人間の眼で見てもわからず、機械で測定・判定するので見ていてもわからないことがある。私がもっとも人間らしさを感じるのが“定性的パフォーマンス評価型”である。我々教員が学生の学習物をルーブリック(観点と基準を定めた採点表)を用いて評価するように、専門家中の専門家である審判が各選手を評価するのであろうが、評価点はだいたいにおいてバラツキを示す。従って、複数審判の最高点、最低点を切り捨て、それ以外の審判の平均で採点する。人間の眼でパフォーマンスを評価するということは、その程度の誤差が出るのが普通であることを示している。
 しかし、フィギアスケートを例にとれば、技術点が演技中からテレビ画面に表示され、ビデオ確認による判定も加わり、以前と比べると採点評価の“可視化(見える化)“が進んでいる。羽生選手の演技中に技術点が加点されていく過程が観衆にもわかるようになっている。演技終了後、突然点数が出るという審判の評価は絶対という進行は弱まっている。
 また、飛距離と距離スキーのタイムで勝負を決めるノルディック複合や、スピードとフォームで競うモーグルのように、複数の基準で総合判定評価する“多元的評価”を行う種目が冬季オリンピックでは目につく。採点評価も“可視化”や“多元化”が進み深化している。


 参加することに意義があるといわれるオリンピックでも、選手が自分の実力を発揮することと、結果を求めることは当然のことであろう。思うような結果を収められなかった日本選手がインタビューで「申し訳ない」と謝る姿には心が痛む。評価は何よりも自らが「何ができるか」の現状確認であり、次に向かって振り返る材料ではないだろうか。
 オリンピックは4年に一度であるが、私たちが自分たちのパフォーマンス評価を受ける機会は日常的にあり、頻度も高い。羽生選手のように勝者であり続けることは難しいが、何度も挑戦を続けた葛西選手や、やっと金メダルを手にしたスピードスケートの小平選手の姿など、私たちに勇気を与えてくれた選手達に御礼を言いたい。